村江 汎愛
昭和八年弓道統一の動きが起こる。各地の武術としての弓術を全国同じ型にするという
ものである。このような動きは自然発生的に起こるものではなく、国家統制のあふりでこのようなこ
とがなされる■であった。世の中はあっちでも、こっちでも新体制、新体制の掛声で統制されるよう
な時局であったことは確かである。弓道に先駆けて剣道が統一されたことを考えても容易に理解はで
きる。
さて全国統一となるとその流派の代表が集まって話しあわなければならない。そこで招集されたの
が一貫流、竹林派、日置流、雪荷流、道雪流、大蔵流、大和流、小笠原流の八流派であり、一貫流で
は当然河毛勘が代表となって出席した。この席上統一型がすんなり決まったとは思えない。その詳細
は資料として残っているかどうかも知らない。しかし、諸般の情勢から類推してみても難産であった
と思わざるをえない。それは、剣道のように一本の打込みにしても、体裁きにしても、何々流の面一
本とか、何々流の胴一本ということはない。ところが、弓は起居振舞いの動作一つ一つがその流儀に
よって違うのであり、打ち起こし一つにしても、正面と斜面とある如く全て違い、それが流儀の特色
でもあったわけである。従ってそれを統一するには、全く新しいものを作るか、どこかの流儀を基本
にして少しずつ違え新しくつくるかである。全く新しいものを初めからつくるのであれば、各流派
も別に何も言わないだろうが、これは大変難しいことである。それならばどこかの流儀を基本にする
となると、ではどの流儀を中心の基本とするかで必ずもめたはずである。どの流派だって自分のとこ
ろの流儀が中心になってほしいと考えるのは当然である。そこには、力関係が必ずあったはずである
。力の強い流派の意見が通るというのが当り前である。
江戸の世になってから、いや、弓が戦いの場から外されるようになってから、弓術は武芸から段々
と華美になり、遊戯的になってきたこともたしかである。しかし、昔かたぎの武術家たちはそうなら
ないように願ったに違いない。しかし、所詮大勢は礼儀を中心にもってきた弓道に成らざるをえなか
った。
この会議で結局小笠原流の礼法を中心にした統一型が編出され、一貫流が願っていた質実剛健の気
風のみちみちた流儀は葬りさられてしまった。河毛勘は「的は敵なり、敵に対し礼は不要」の論理を
持ていた。しかし、礼を以て心身の鍛練するという方向の小笠原流では徹底して礼法を取入れた型で
新しいものが出来上がった。そして、日本武徳会が一手にやることになったのである。
調査委員に対する委嘱状 昭和八年九月十三日 日本武徳会会長 鈴木 荘六
さて、統一された弓道であったが、因幡古武士血の流れる河毛勘はどうしても一貫流を全廃する気
になれなかった。そこで、武徳会の武徳殿では統一型をやり、鳥取一中弓道部にこの一貫流を残そう
と考えた。少なくとも一中だけでも残して欲しいと願ったのである。
そこで、昭和十年河毛勘の死後その意思を継いで一中弓道部に残すことになったのである。
一貫流の免許については、河毛勘の跡目を継ぐ者がいなかったため、河毛家に保管されていたもの
を現在では、県立博物館に保存されている。現在ある弓道家が「私は一貫流の免許皆伝を受けている
」と言っているがそれは間違いであると思う。当時河毛勘の高弟だった、安岡、松森、野一色などの
方さえ、免許皆伝でないのに、当時この方より他の方に免許皆伝されるわけがないのが本当であると
思うのである。
師匠のいないまま、先輩からの伝統をたよりに一貫流は堂々と全国制覇をめざして練習に汗を流し
たのであった。「鳥取に一貫流あり」は全国に知渡っていたのである。
さて、時代は昭和十六年になると、国家統制も軍部の力でおし通されるようになる。武徳会の会長
も陸軍大将東条英機となり、武道も国家の大切な修練の一つとなってきた。当然一貫流だけのうのう
と統一型よりはみ出て、自由であって良いとはいかなくなった。そして、鳥取一中弓道部に統一型を
やるようにと下達があった。当時主将本部裕は部員を集めどうするかを計った。しかし、賛成する者
は一人もいなく、全員一貫流を続けようと決議した。そして、担当の教師の宅におしかけて自分達の
意思の強さを表明した。とにかく一貫流が無くならないようにと嘆願して回った。しかし、所詮抵抗
出来るような状況にはなかった。
そのしめつけの一弾が浅村忠晴教論であった。彼は陸上競技の部長であったが、統一型で弓を引い
ていたので、道場に来て統一型で弓を引いてみせた。部員は知らぬ顔をしていた。第二弾が岡山から
六段教士の先生の派遣であった。一週間に二かい道場に来るようになった。そして、統一型を教えて
いた。しかし、彼が来ない時は勿論一貫流をやっていた。とうとう第三弾が打込まれた。統一型によ
る段級試験を受けよというのであった。弓道を四年も五年も真面目にしておれば二段三段は普通に取
れる。押しに推されてとうとう段を受けさせられた。しかし、武徳会の免許状は全て破って捨ててし
まった。こんな免許状は要らないというのであり、難のためらいもなかった。
締付けがあればあるほど、抵抗しどうしても一貫流を残したいという意欲はつのり、本願寺の谷本
氏のところから「弓書」という、一貫流の伝書を借りて来て読解に励んだ。部員の結束は強かった。
先輩の残した型の写真を見て研究した。あくまでも一貫流を存続しようという頑張りに岡山からの教
士は不愉快であり、とうとう途中で来なくなった。万歳をして又、元の一貫流を毎日するようになっ
た。しかし、これも戦争が激しくなり、部活動が段々出来なくなり、学校の勉強より動員という時代
となって、弓道部もあって無きが如くとなってしまった。これは弓道部だけのことではなく、野球部
も篭球部も排球部も庭球部も戦争の道具としてすぐ役にたたない部は休部の状態になっていった。
従って、戦場運動として、塀を乗越えるとか、手榴弾投げとか、土嚢運搬競技などが中心となってい
ったのである。
さて、時代は敗戦後になり、武道禁止の時代がくる。そして、やっと念願かない武道解禁となった
が。一貫流は再起することなく、鳥取西高弓道部では弓道連盟の統一型をやることになる。
私が何故一貫流にこだわるかが理解して戴けたと思う。それは私が一貫流を廃止せよと言うその時
代に遭遇した一人であったからである。あの時すんなりと統一型に転向していれば今の私のいきかた
はないだろう。あの時どうしても残したいと念じ心に決め、必死になって奔走した若き日の情熱が今
も生き続けていて、一貫流を死ぬまでやっていきたいと思うだけである。
私の今やっている流儀はもはや一貫流とは違った型になっていると忠告してくれる人もいる。それ
は私も知っている。恐らく河毛勘範士の型とは違うだろうそれは百も承知である。河毛勘範士の射法
は先輩の誰も出来なかったという。それが私に出来る訳がない。しかしこれは弓道が復活した時点で
もはや昔の弓術の名残ではなく、スポーツとしての弓道をすることで理解できると思う。無理な体型
をこしらえた、昭和八年生れの統一型も戦後の文部省スポーツ課のクレームによってあちこちと自然
体の理によって改革されたことでもわかる。従って河毛勘範士時代の一貫流の型からは少々遠のいた
型になっているかも知れないが、他の立礼射、座礼射、応変の射等の礼射の型はなるべくそのまま昔
のままに残したいものと考えているのである。
それは、全国にたった一つしかない、しかもこの鳥取にしかない、この流儀を何時までも残してお
きたい。私たちの時代に先輩が「残してくれ」と言って卒業していかれた言葉をやっぱり守っていき
たいと思うのである。これが河毛勘範士の霊に報いる道だと思って修行しているのである。
河毛範士のお墓はたまたま私の住んでいる馬場町の大隣寺にあるのも又何かの因縁であろうか。