LastUpDate:23/11/03.
大離れと小離れ
平田 治

弓を引く動作の中で「離れ」については「大離れ」「小離れ」の2通りが知られていると思います。また 江戸時代は 小離れ、現代は 大離れ という話を聞いた事があります。
では、大離れとは?小離れとは?という違いについて定義された文章があるか?については 江戸時代の文献にはあろうはずもなく(基本的に小離れしかない)、現代においては あまり活発には議論されていないようです。
今回、少し触れてみようと思い立ったはイイのですが、如何せん私の勉強している一貫流は持論(自説)を持ち出すのは流義的に禁止の方向なため「これは一般論(他の人も言ってる事) 」と思えるものを例にあげ、後々振り返る時の 覚え書き と言い訳できる範囲で文章にしてみようと思います。

 

大離れの原理

現在、主流の射法は胴体を 的と体の線両肩の線 が平行になる「三重十文字」に引き分け「大離れ」で 矢を放す という引き方だと思います。
これを模式的に考えると、射形を支えるフレームを骨格 支点を肩関節として腕の骨を打ち起こしから引き納めの位置まで肘裏,背中の筋肉の収縮により扇状に稼働させるのが「弓を引く」時の運動であり、この引き納めた状態(会)で 肩関節(支点)と勝手が矢を番えている点(力点)の位置関係から矢を放つ時に弦に固定されていた勝手が力が解放される反動で自然に大きく離れる コレが一番自然な動作だ とするものです。
一見当たり前の事を言っているようで、しかし「これ以外に力の使い方はない」と言い切ってしまうと大離れ以外の引き方には目が向かなくなります。

では「小離れ」とはどういう引き方か?大概の人は「会に至った時の伸び合いが足りなくて勢いがないか リキんでいるため動きも小さい離れ」と思われているかもしれません。

これは射法の原理は1つしかない(射法とは上記の骨と筋肉の連携方法しかありえない)もしくは、和弓という同じ道具を使うならその引き方が1つであるのは道理であり、弓道の各流派によって引き方に違いはあるのは弓を引く時の状況想定による問題で違っているのであって、力の使い方での合理性は大同小異なのだろう と言い換える事もできそうです。
他にも 高齢の範士レベルになる頃に到達する引き方だけど 射法の動作原理は分からん 的な意見も聞きます

小離れに分類できる射法

さて、ここで話が変わりますが
一貫流では「戦時の技術を保存する」という流義があり、古文献に登場する射技を研究、再現(習得)する事で技術が保存されている確認をしています。弓を引く技術の完成は平安時代なのでしょうがそれを示す言葉だけで初心者が射法を再現できるはずもない(うっそだぁ〜と言って信じない人が必ず出る)ので「各時代ごとに確認してみる人が欲しいな」という考え方でよいかと思います。
それゆえか一貫流の文献では一寸の弓は引けて当然のような書き方がされており、普通に弓力上げしていけば一寸の弓も引く事が出来そうにも感じます。しかし「現代弓道講座」の文中には「八分(約60kg)以上は力が強い人の弓(九州の金子範士)」という表現がありチョット敷居が高い印象もあります。実際、一般論ではよく常人の腕の力は約50kgと聞きます。これを理屈で計算して考えるなら弓力も約50kgという上限を越えるスベは無いように感じます。
しかし 西洋の記録ではイギリス長弓部隊で80kg、日本の一寸の弓で約150kg(
記録上、計量できる最高は一寸三分)、為朝様の五人張り(計量できない最高)はもしかすると500kg以上あったかもしれない。と 記録に残る歴史上の弓力の上限は こんな所(50kg) ではありません

私自身の経験では八分 ⇒ 九分へ弓力を上げる時に上限(天井)にぶつかり、試行錯誤して引き方を見つけてみると、逆に「これはどういう力の使い方なのか理屈で説明できない」「この方法は一般的な(正しい?)のだろうか」とさらに疑問が増え、解決法として昔の文献で該当する記述が無いか探すと「胸の中筋に従い宜しく左右に分かるる如くこれを離つべし(射法訓)」「肘の力を抜く(弓と禅)」「縦一文字 横一文字(一貫流射則)」と 今まで普通に目にしていた文章がそのものであったという事がありました。
また 打起しから伸び合いだけで弓を左右に押す事も「大鳥の羽を広げるが如し(美人草)」と、以前読んだ時は「てっきり引き分け美化表現だと思って、羽という表現の意味まで考えてなかった(羽みたいな弱いもので八分60s以上の弓力を支えられる訳ないでしょ?と思って九分に至ってみると こう表現するしかない)思い込みってイヤだね」と反省した覚えもあります。
持論として結論を出す。のではなく考える材料として 小離れを示すであろう 既存の言葉 を集めてみました

せっかく先人が残してくれた文章もその意味を汲み取れず(どう解釈したら三重十文字になるのか?と不思議に思っただけで放置して)、また 師匠に付き「師の言葉には絶対服従」をしていれば2,3カ月で体が覚えていたモノを我流で突き進んで10年以上苦労したという要領の悪さを嘆いたモノです「愚考後悔先に立たず」ことわざ通りです。まあ一寸の弓の引き方を知る師匠はおらんでしたが

また、この引き方を大離れの時のように模式的に考えると、支点は「胸の中筋」になるので勝手が矢を番えている点(力点)との位置関係や力の方向から見て会で伸び合っていても離れの反動で勝手が動く事はなく「小離れ」になります。他にも原理的に小離れになる射法はあるのかもしれません。

小離れしかない時代に「なぜ大離れが発明されたのか?」については現代の射法の説明でも分かり易いように 筋肉という体の部品ごとに動きの役割を分離すると弓を引く運動というものを理解しやすいからでは?と考えます。
根拠とするには安直かもしれませんが、小離れの発明・定着した時期(平安〜室町期)には骨と筋肉を別々の機能として考えられる知識的な基盤はなかった(まるっぽし腕1本と)
日本において人体の骨や筋肉の付き方などが一般的な知識となるのは(杉田玄白の解体新書などの)江戸期に西洋医学の考え方が入ってきてからで、その知識に基づいた合理的な発想もそれ以降と考えた方が良いのでは?と思っているためです。
小離れとは骨と筋肉の働きを分けて考えていない。とすると 私の中では納得ですが 骨や筋肉の役割が現代の運動生理学の説明とは違います。しかし現代の定説といっても数ある説の1つかも知れませんし、数ある筋肉の使い方の1つかもしれません。また より強い力が扱えるからといっても理論と実証がセットになっていないと これが本当に理論として正しいかどうかも分からない所です

逆に小離れのメリットは?と聞かれると 想像の域 でしかありませんが、私の場合は 強弓を引くため 江戸時代では1日に500本,1000本の矢数を掛けるため 高齢の人は練習の負荷に耐える(弓力を落とさない)ため? と ”体への負担軽減” が1つ考えうるかもしれないと思います。

「大離れ」でも一寸の弓が引けるか?という疑問について

以前 弓力を九分に上げた時、射法を小離れに切り替えたため達成できたのは前述の通りですが、九分の弓を引くために必要な力加減の目星がついたので、試しに肘の力(大離れ)で引いてみてやろうと実験してみたコトがありました。結果は九分の弓の弓力を肘で受けとめた瞬間「ブチっ」という音が両肘裏の筋肉からしたので慌てて戻し、その日の練習は切り上げて、肘裏・脇の下・肩甲骨の上 と痛みのする3箇所(左右の計6箇所)に冷シップを張って 一日安静にして コト無きを得た という事があります。以来懲りて再挑戦はしていません。
私自身は一寸の弓を引く事さえ出来ればイイという理由から小離れという安全な道を進んだので、大離れでも一寸弓が引けるかどうかを本当に検証したとは言えません。
肘で引く弓(大離れ)でも強弓は引ける事を証明したい人が挑戦する分には特に干渉する気もありません しかし他の人の話では七分の弓を乱暴に引いて肩関節を痛めた話も聞きます 同様に九分の弓は引き方によっては筋肉がちぎれる強さの弓力である事を知ってもらい 挑戦の際の参考までに失敗事例を1例上げておきます

 

 

 

昔の文献を読めば、無駄な努力を省略できる?

江戸時代などの古文献を読んだ人の感想でよく聞くのは「(目新しい事は)特に何も書いてなかった」というものですが、昔の技術書は 今の文章の書き方と違い、体の動かし方などで万人共通だと思える基本的な事以外の各個人で意見が変わるようなコツ的なモノは自分で見つけろ。の意図があり、考え方の方向性や雰囲気(イメージ)は書いてくれるが、現代のような理論展開が重要視される文章ではないようで、具体的な方法の記述は皆無です。それ故に 知りたい事が何も書いてなかった という感想なのでしょう。

一貫流の文献中でも初代さんは「よく知る人に尋ねるべし」と文を切り、二代目先生は「以下口伝」と片づけ、八代目の河毛先生は「各自 発明 発見あるのみ」と流しています 他にも「自説を蝶々と喋るは後進の育成に百害あって一利なし」という記述もあり、弓の引き方は人それぞれのコツに相当するモノ喋っちゃならねぇと考えられているようです。これはむしろ「こういう書き方が流行なんだ」とするより「深く追及する文章を避けている」と考える方が文献の知識を活用しやすいと思います。

今の世情で例えると「この先生とあの先生は言ってる事が正反対でどっちが正しいか分からない」という話をよく聞ますが、今は事の正誤にかかわらず全ての情報を出して並べる事が美徳。の風潮があるようですし「私も昔そうだったな」と思う所もあります。しかし その結果 混乱する人が出る事を情報の提供側が意識してフォローしていない事も事実でしょう。
この事を昔は「百害あって一利なし」と言い、その辺りは個人々のコツの問題だから文章にする事を避ける文化だったのだろうと思います。

話を戻して 深く追求する事を避ける表現を他の文献や一般論で相当する単語が何かないだろうか?と探すと、これは俗に言う「奥義・秘伝」といわれているモノと同等なのではなかろうか?と思い当たります。

たとえば一貫流の文献の中で河毛先生の書物には「冥途の矢は的中の秘伝。的中は心の技術」という「秘伝」に関する記述があります。この文章で説明するなら、まず冥途の矢は「的中の秘伝」と(この文章ヤバいよ)の断わりがあり、これを無理ヤリ説明するとすれば「的中は心の技術」という以外の表現ができない上 万人共通の理念ではなくなり個人的なコツになるから これ以上細かく表現できない。と文を切っているのだろう思います。

他にも剣術書などで「奥義・秘伝として技の名前や雑なポーズ絵は書いてあるがその説明が一切されてない」と文献を読んだ人がグチってる事がある等もコレ以上説明を入れると万人共通ではなくなり個人的なコツになるから表現できない 後は各自 発明 発見あるのみ と解釈すると「そういう事なら、こんな雑な記述でも(方向性が分かれば)いいのか」と納得もできます。

こうなると「奥義・秘伝」という単語は今の小説などで必殺技の名前などに使われている技術の格付けという意味の言葉ではなく、昔は人間社会の中で安全に技術伝達するための表現方法という位置付けにも考えられます。
言い換えるならば、昔の文献でも重大な事は記述する方向にあります。ただ個人的なコツはむしろ記載すると人を選ぶから「これは言わない方がいい」という考え方なのだろうと思います。

しかし現実問題、技術を習得しようと尋ねてくる者はそれこそ死に物狂いで情報を集めて獲得しようとするので、いくら「役に立たないから」と断っても「それでもいいから」とか「判断するのはオレだ」と無理強いしてきて聞き出す事に成功したとして、今度は逆に「百害あって一利なし」で自爆する事が目に見えている。さらにタチが悪いと逆恨みなどで人間関係も荒れる。それを回避する知恵として「奥義・秘伝」という言葉が 発明 使用されたのではなかろうか?という事です。

以前、安齋先生の「貞丈雑記」に「奥義」という言葉の意味が5つあると紹介した内容に

  1. 「師匠(先生)に口止めされたから義理立てして教えない」
  2. 「流派に重みを出すために使う」
  3. 「自身がよく分かっていないコトをゴマかすために使う」
  4. 「相手が技術的に到達していないから教えない(教えてもムダ)」
  5. 「絶伝させる目的でしゃべらない」

とある内、5つ目の箇条などは「絶伝させたいなら 奥義 なんて言葉を使わず、喋らない 使わないのが普通だろう?」と奇妙な行動に受け取れます。1〜4の箇条についても当の本人は人間関係の悪化を回避する意図で言葉を使用しているだけ。しかし、安齋先生は 迂闊に「奥義」なんて言葉を乱用すると こう見えるぞ。(客観的に) と警告しているのかもしれません。

また、吉見順正先生の射法訓で「弓手三分の二弦を押し、馬手三分の一弓を引き」という表現は上記に照らせば先生自身のコツであり、コツとは本来 自分独自の体の操作方法であるから書くべきではない。という事になります。しかしながら、この吉見先生のコツは射癖の矯正にはけっこう便利なので私自身よく使うし、色々な人が色々な言葉で評価されているのを聞くため、ある意味 万人共通とも言い得て コレはコレでOKなのかな と、一概にコツかも知れないものを全部書いてはダメ。とも言えず 何とも その判断は難しいものです。

 

 

あとがきに代えて

今回の本題とは違いますが「的に矢を向ける意味を知り、その上で矢を放てるか?」これは 弓道の…さらに言えば弓という道具を使う上での最終問題でしょう。
もしその的が「人の頭」に化けて、それが刀を持って襲って来たら背に腹は代えられない という事も分からない話ではなく、今度は「イノシシ」に化けたとして、今晩のご飯がなければ コレもまた背に腹は代えられない も、仕方がないかもしれません。
現代において上の2つは笑い話(多分ありえない話)ですが、的が何に化けるかは横に置いても的に矢を放つ事を自分に問う前に「放ってもまず当たらない」ではお話にならないので、こちらも私にはまだ先の話です。
しかし、いざ その坐(位)に辿り着き お気に入りの座布団を敷いて座り 考えを巡らせる時 私はどんな結論が出せるのだろうか? 結局のところ各個人の考え方次第なのだろうとは思いますが、”結論は如何に?” と問われた時「その場にならないとムリ」なんて情けない話はしたくないモノです。考えてみるだけなら今の内から 少しづつ、少しづつ