弓具の成り立ちで確実なところ
平田 治
今までと趣きを変え、雑談の話です。
弓や弓道に使う道具。古くからある物だけに現在では”なぜその形なのか?(使い方なのか)”が日常の生活に忙殺され流されるままになってハッキリ知られていない部分がある物もあります。
今回は 以下の5つについて 現在(戦前の科学的研究成果や徳川期以前の文献で)確定している情報を上げてみます。
弓の歴史
日本の歴史に使用されている時代の名前を主な指標として話を進めていきます。
石器時代〜 ごく一般的な話として、弓は最初 狩猟用の道具として始まっているのは周知の通りです。 のち、戦争の道具としても使用されるようになりました。
日本の弓は
この時にはすでに身長に迫る大きなサイズであったことは土器に描かれた絵で知ることができます。また近世に入ると遺跡の発掘が行われて木弓が発見された事で「少なくとも五尺以上だったであろう」と言われています。もっとも中国弓や洋弓も六尺のモノはあるので、この長さで特異であるとは言い難いですが。
平安時代前後〜
武士という戦争専門の職業の登場によって弓の使われ方が変わっていきます。この時代までは普段は農作業にも従事しながら、戦の時に駆り出されて
弓が上手という程ではないヒト達が使っていたと思われます。
それが故か どうも平安時代中期ぐらいまでは弓の引き方が現在と違うそうです。これは安斎先生(伊勢貞丈)の説で絵巻物に出てくる「放れの絵」の勝手の形が違う
というのが根拠のようです。
ここから(専門家の登場により)「より強い弓で一騎打ち」が戦の主流の時代へとなります。
【強弓・馬】 という戦法の登場です。
これは「戦で負傷すると(たとえ傷が治ったとしても健常者に力及ばず)そのまま廃業」となる事を嫌う専門職ならではの切実な事情で、戦場から無傷で帰還する目的によるものだとか。そしてこの辺り(平安時代末期)で現在の弓の引き方が確定したようです。
この時代の弓を知るには主に絵巻物を追いかけて調べていくそうですが、私の知識は安斎先生や一貫流文献の受け売りです。
鎌倉時代末期〜 時代は流れ 弓馬で一騎打ちの時代も長くは続かず、だいたい元寇の前後辺りから戦のスタイルが一騎打ちから集団戦へ変わっていきます。それこそ「領地にいる農民を根こそぎ借り出し」でもして
【数で推し込んでいく】戦法 になっていった とも言えます。(招集が可能かどうかは別問題)
ここに至ると
弓の弱点が露呈し(大多数に対応できない)、「矢継ぎ早」など数を射る技法も考え出されますが、戦況を覆す程には至らず(何より矢の供給が間に合わない)、戦の主力兵器の座を 槍に渡すことになります。強弓の時代の終焉です。
しかし戦争の主力ではなくなっても 猛者の象徴である事が幕末まで続いたのは、強弓を引く事が可能な人間は圧倒的な力を持っているため、そんな人間と対峙すれば脅威であることに変わりはなかったという事でしょう。
鎌倉時代以降は今に残る習慣や文献が多数あり、文章を追いかけて調べていくだけでも時代の実情を知ることは可能になります。 現在、近的の距離が十五間に決められているのは槍の間合いを念頭に置いた陣地の間合いであることはよく知られています。この 槍の時代
の名残りである ということですね。
江戸時代になると
槍から刀へと 携帯する実質の主力兵器 が変わってきます。平和な事もあるでしょうが使用場所(武技をふるう場所)が野原から街中のような狭い空間に代わってきて三間槍のような長い武器では扱いづらくなるせいかもしれません。
江戸時代以降の弓については書籍もそろっている(貞丈雑記などは今も販売中)ので省略します。
(余談になりますが)
戦乱の時代(平安〜戦国時代)の間、なぜ刀が主力ではないのだろうか?については現代の人から見ると疑問に感じる事かもしれません。(今も盛んだし、絵巻物でも必ず携帯している) 平安時代のヒトの言い分としては「刀が届く間合いで戦うと本人が如何に圧倒的な技量を誇っていても偶然などの不慮の事故を防ぐことができないため
どうしてもケガをしてしまう」という事なのだとか。(ケガをすれば失業、その後の生活がつらい・・・以下省略)
弓の長さ
日本の弓が世界で最長であることは有名です。 ではなぜそこまで長いのか?については現在でも 歴史家、弓道家、弓師
と色々な方が色々な説を唱えておられますが、「結論から行くと わからない」 というのが現在の状態のようです。
ざっと今言われている説を上げると、「肩口まで引くため」 「敵味方の識別のため」 「加工技術の未熟」 「(森中をかき分ける等)長い方が使い易かった」等
色々出ていますがしかし 事が石器時代の話なので すべての説で歴史的な物証のある話ではなく 推測の域を出ていない と言えます。
(構造・製作上の利点を論点にしているので
宗教的・神秘的な理由については除外しています。その理由が付く時には形は決定していた。と考えているためです)
一番理に適っていそうな「肩口まで引くため」でも先に上げた通り射法が確定したのは平安時代。
現在残る目録を見ると射法が確定する以前の方が長かったと思われる(東大寺献物帳、正倉院現在御物)弓が短くても肩口まで引く事は不可能じゃない(耐久性が落ちるけど)
などの反論も出ています また耐久性を上げるだけなら上下非対称の理由もありません。
現在確定している事実は、明治時代に行われた実験結果として「日本の弓は地面に平行に矢をつがえても必ず上の方向に飛ぶ構造をしている」 という事があります。これは実験の結果
確定なようですが、まあ 想像でそれほど予測できない話ではないかもしれません。
参考までに飛距離が似ている他の弓の代表として中国弓と洋弓(リカーブ・ボウ)を例に挙げると、この2つは握りを中心として上下対称な構造のため地面に平行に矢をつがえると矢は平行に射ち出されます。 また握りの所で上下に分けて測ると日本の弓の下鉾の長さは中国弓や洋弓の下鉾の長さと大差ない事も事実です。つまり他の弓と比べて日本の弓の工夫点は上鉾を長くした事。そしてこの事による効能(日本の弓が長い理由)は「必ず上の方向に飛ぶ」(飛距離を伸ばす)事ではないか?と思えます。 ここまでだと
何か当たり前すぎて 命題の結論には及ばない気もしますね。
〜 ここからは私の推測ですが 〜
日本の弓は起源として海洋民族が使っていた?という説があります。これの根拠は「ゆみ」という発音のルーツがどうもそっちらしい。という研究でしたが、矢の飛距離の観点から考えた時
陸上の獲物に矢を当てるならば 茂みなどに紛れて必要な所まで接近することができるのに対し海上の獲物(海上で羽を休めている鳥など)は接近しようにも紛れる茂みがなく
遠く離れた所から矢を射かける必要がある事が考えられます。
このため同じ筋力で弓を引いた時、矢を平行につがえて(狙い易く)、矢をより遠くに飛ばす必要が弓の握りから上側を長くする工夫に至ったのかもしれない(当時の最先端科学ですね)
と考える事もできます。あの形を必要とする動機とその工夫点について一説上げてみましたが、しかし さて、現在となっては物証は残っていない話なので 本当の所どうなのでしょう?
(東南アジアの島々で「あの形の弓の壁画」でも発掘されたなら「この説に本腰入れていいんじゃないだろうか?」ぐらいには思いますが、現在の伝承だけでは
戦時中 あの辺りに日本兵が技術をばらまいた可能性も否定できません)
取り懸け
取り懸け方は世界の弓で見ると大雑把には 原始式、地中海式、蒙古式 の3通りがあります。
ざっと荒く説明すると、「人差し指と親指で矢をつまんで引く」のが原始式。「親指以外の4指で弦を引く」のが地中海式。「親指と人差し指の根本で弦を折るようにねじって弦を引く」のが蒙古式です。 どういう違いが?という事については、その取り懸けで扱える弓力 と 射法の主体となる筋肉 で表現すると結構単純な説明ができます。
まず原始式。手首の力で弓のバランスを取る引き方で理想的には10s未満、最大でも20s前後までの弓力しか扱えない引き方です。メリットは手首での力の制御が人間にとって一番楽なため習得期間も早い事、デメリットは制御できる力の上限から 飛距離が短い 威力が低い事です。
次に地中海式。4指で弦を持つため指先の力も関係しますが、さらに肘(二の腕:力こぶ)の筋肉も使って引く
力の強さに対応した取り懸けです。理想的には20s前後、最大では(1545年「ロージア アセーム」著
弓書によると)「40s以上になると制御が難しい」
とあるそうです。肘の力は個人差もありますが50s前後あり(日本の弓ではこの肘の力の半分≒25s以上が強弓と言われます。「強弓は肘で引くな!」という事ですね)この射法の上限もそこ(肘の筋力)にありそうです。しかし40s(20s灯油缶2個)を指で持ち上げるような話である時点で指の強度がこの取り懸けの上限のような気もします。メリット・デメリット(習得期間・飛距離)も 3つの中では中間に位置します。
現在
弓道で練習されている方も 取り懸けは蒙古式ですが 肘の力を主体に運用している方は、力の運用的にはこの位置(肘で引く弓)に当たり 取り懸けとしては まだ余力があるという事になります。また洋弓でもコンパウンド・ボウという種類は運用に必要な力が小さく、1日で習得できてしまう。と聞くと、取り懸けは地中海式でも 力の運用的には原始式かもしれないな
と感じます。 肘の力を使う引き方の特徴である「手首の力を抜け」という話には現在
弓道をされている方にも心当たりがある方が多いのではないでしょうか?
最後に蒙古式。初めて弓を引く人が
まず嫌がる取り懸けです。この方法は中国、朝鮮、日本など東洋の弓に見られますが、理屈的には「指」「手首」そして「肘」の力まで抜いて
さらに大きな筋肉(強い力)で引くのに
とても効率がいい取り懸け方法です。むしろ「なぜ指から力を抜いて引いても弦が外れないんだ?」とか「手首、肘に力を入れないと弓は引けないだろう」とか疑問の固まりのような取り懸けと射法ですが手首や肘の力を抜いて行う運動を理解すると「うまい事考える人はいたもんだ」と驚く方法です。
この引き方の理想的な弓力については正直わかりません。(「自分の体重」でいいと思います)
弓力の最高記録も中国、朝鮮、日本でまちまちです。(使う「大きな筋肉」による) 中国の弓書「射学正宗」によると肘の力を抜き背中(肩甲骨周り)を大きく使わないと大成しない。とありますし、日本の最高記録でハッキリ数字になっているのは下野喜連川藩
喜連川 茂氏 公の一寸三分です。こちらも九分以上の弓は背中(背筋全部)を使わないと 肘の力を使ったぐらいではビクともしない事に違いありません。(参考:六分で20s手前、七分は40s強?ぐらい)
参考までに中国の弓名人の記録を見ると(中国の射法的な上限は)80s前後ぐらいか?と感じます。
魯(中国 戦国時代 〜前249) 顏高 六鈞(180斤)=45s 東観漢記(後漢[25〜220]) 蓋延 身長八尺で300斤=74.s
後漢 祭彤 300斤=74.4s 唐 張士貴 150斤=99.2s (全員が正しく肩甲骨周りの筋肉しか使わなかった。とは言い切れませんから) この取り懸けの引き方のメリットは自分の体重を超える弓力さえ運用可能にする脅威的な可能性です。デメリットは何と言ってもその習得にかかる時間です。人間そう簡単には楽に動かせる筋肉で操作する事を諦めて 使い慣れない筋肉を使う事を選択できないようです。
取り懸けの種類が世界の弓で違っているのは 現時点で必要な場合もありますが、伝統的な事(その地域ではどこまで強い弓が使われていたのか)から
今に至っている場合もあります。
弓力が弱い弓であれば取り懸けの種類は選ばないが、強くなるに従って選択肢が減ってしまう。と考えてよいかと思います。日本が蒙古式を採用しているのは必要があったのであって弓力とは関係なく選んだ訳ではないのかもしれません。
上記、平安時代以前の日本の弓は引き方が違っていた という話では「原始式だった」のでは? と考えられています。安斎先生の説によると
まず4指で弦を持ち、人差し指の横腹を矢に付け上から親指で抑えたのでは?とありますが、これは説明するまでもなく今現在でも初めて弓を触る人は多分やるだろう 引き方です。
(文献には「親指 人差し指の2指で矢をつまみ残りの指を弦にあてがう」とありますが これを馬鹿正直にやると「とてもじゃないが40sどころか20sでも無理」なので たぶん
上記の方法を「表現しようとした」と思います。ただ 私の説明のニュアンスでは4指とも使うなら「地中海式」では?と感じますが、安斎先生のニュアンスからは「矢をつまむ事」を重点に「手首の力」で引いていたと感じています)
蒙古式での最大弓力ですが、背中の筋肉が最大でどれ位の力を持つか?が問題になります。背筋とは2足歩行をしている人類にとって起きて活動している間ずっと上半身の体重を支えている筋肉で、筋力を調べてみると一般的な人で150s前後、優れた運動選手では200〜300sという事がスポーツ医学の統計で言われています。重量挙げの世界記録では400s以上あります。これも腕や脚の筋力の上限込みの話なので純粋な背筋力の上限ではないでしょう。(腕の強度の限界は500sとか)
いずれにせよ私自身が一生をかけて到達できる弓力とは無縁の世界の話になってしまったので「底が知れない」以上の興味を持つことをやめてしまっています。
(500sを超える弓を扱って医学的な腕の強度の限界に挑戦可能な所に今自分がいるのであれば、それもまた魅力的ではありますが、あとは私に一体どれくらいの弓力を扱う事ができるのだろう。という探求を楽しむつもりでいます)
この取り懸けと背筋の関係に気が付くと
先輩、先生方に「背中を使え!」と口を酸っぱくして指導された事はすでに耳タコになる程なのに 自分は一体何を分かってきたつもりだったのだろうな。と
しょっぱい思いのする話です。
矢の羽
日本の矢で使う羽には 現在、3枚の羽を矧ぐものと4枚のものがあります。 一見
矢に付ける(矧ぐ)羽の枚数の違いだけに見えますが、使い方(機能)に違いがあります。 (矧ぎ方の違い、見分け方は割愛します。各々ご確認ください)
一般に3枚羽に矧ぐものは矢を回転させることが目的で、銃でいうライフリング(銃身の内に螺旋の溝を掘り意図的に弾を回転させる構造)と同じです。矢の的中精度の向上が目的ですから、ボロボロの羽より
きれいな羽の方が矢の精度は高いと言えます。しかし、巻藁矢と大差ない羽でも当てられる人は当てられますから、的中に関係するようで実の所
ウデ(正射)の方が大事です。
羽がボロボロの矢を使うと的枠ギリギリで外れた矢所が、きれいな羽の矢を使うと的の中に納まるか?と言えば 相変わらず的の周りに行くのは不思議な気もしますが往々してよくある話です。
(緩んだり ブレたりで「的の中心を狙っていなかった」という事 → 矢は狙ったところに正しく飛んで行った)
むしろ巻藁矢(羽なしの矢)を近的(28m)に向かって いい加減な放し方で射ると、急に90度近く軌道が変わる危険な飛び方をするので3枚羽は「空気抵抗による危険な影響を抑える」意味の方が大きいでしょう。(回転しない矢は危険)
戦前の実験結果に「矢は2回転半して的に届く」という話は有名ですが、羽の良し悪し(値段は無関係です)は矢の回転数に関係します。羽がボロボロでも的に届くまでに最悪1回転すれば安全(危険な飛び方をしない事)は保証できる?回転数が多い方がより安全。という事なのかもしれません。
もっとも最近は羽について規制が厳しくなった事があり、できれば「最先端の科学によって羽が無くても回転する箭」とか考え出されるならば、もはや羽をつける必要はなく
一番今の時代に合った画期的発明になるんじゃなかろうか?と思います。
これに対し4枚羽に矧ぐものは矢を回転させない事が目的です。羽は飛行機でいう水平尾翼と垂直尾翼に相当する機能を持っています。なぜ回転させないか?は使い方が関係します。主に蟇目を鳴らします。戦場で矢を飛ばした時に矢が回転すると
蟇目の音が聞く場所によって 音が途切れたり 音程が変わったりするため
合図として間違えやすい。どこで聞いても「同じ音」を鳴らすための矢。これが使い方としては一番多いでしょう。
4枚羽の羽はまっすぐに飛ばすために
ある程度の補正としての尾翼ですが、飛行機が進行方向や速度調整の操作のために主翼や尾翼にギミックを持つように、羽がきれいな状態ではまっすぐ飛ぶことが期待できても
ヨレヨレであったり ボロボロであれば軌道に影響が出やすい事は想像にたやすいハズです。また 先にも上げた通り
回転しない矢は危険です。
ということは、3枚羽は矢のメンテナンスに多少問題があっても安全性が保たれる(何かと手がかからない。初心者でも安全)。4枚羽は矢の目利き(矢の状態を維持)ができる事、射法が確かな(まっすぐ放てる)事が使用条件ですね。(下手な人は使わない方が良い)
3枚羽について戦前の実験データとして
矧ぐ羽の枚数と的中精度、空気抵抗の変化を計測したものがあります。1枚〜6枚まで羽をつけて実験した結果、枚数が多いほど精度は向上するが、空気抵抗も枚数に従って増え
6枚羽は論外に大きかったようです。結果、3枚もしくは4枚が良いという結果であることを覚えています。(ここで使用した1〜6枚羽は3枚羽の矧ぎ方を使用しています)
逆に、4枚羽に矧ぐものは的中精度を上げるものでは無いので、目的の所に矢を飛ばす用途に使うには3枚羽、その必要がなければ4枚羽と覚えるのも蟇目の儀などの儀式で蟇目の矢にどちらを使うか 使い分けの覚え方にもなります。(行う儀式で正しいかどうかはその儀式の格式(手順書)を事前に確認してください)
鞆(とも)
現在、その使い方に定説がない。と されている弓具です。もっとも説が1つもないわけではなく、有名どころで3説ほどあります。
- 連続で引くために弦を手首で止める道具
- 腕輪(魔除け)の保護具
- 手首に巻いて衣服の破損を防いだ
順番に見ていくと「連続で引くために弦を手首で止める道具」は昭和に入ってから言われ始めた説です。
矢継ぎ早(速射)をするための道具だったのでは?という事ですが、鞆が歴史から消えたのは平安時代初期前後なのに対して
矢継ぎ早が歴史に登場するのは鎌倉時代末期。誰がどう見ても 時代が合わないため、古文献を読む人が限られてきた世代らしい説と言えます。
(ちなみに矢継ぎ早の方法は「放れの瞬間に弓を強く握る」ことで 矢勢良く 弓返りも止める 一石二鳥を良しとします)
「腕輪(魔除け)の保護具」 この説の提唱は江戸期だったようですが、明治の弓界の大御所
斎藤直芳先生が大絶賛されている説です。理由は鞆が歴史から消えた時代に寸分狂わず当てはまるから。という事ですが まず内容を見ていくと、
昔の日本の習慣に勾玉の首飾り、腕輪をする事があります。この習慣が聖徳太子の時代に仏教伝来と共になくなっていく時期が 鞆が歴史から消えていく時期に
重なるのは偶然じゃないとする説です。
要約すると、弓を引くと弦が腕輪に当たってケガをする。腕輪も壊れる。弓は引かなきゃいけないけど魔除け(腕輪)は外したくない。ならば腕輪にカバーをかけてしまえ。という事です。
最後に「手首に巻いて衣服の破損を防いだ」 この説が一番歴史が古く
歴史上多くの弓道家に支持されている一般的な説です。しかしそれでも疑問点や欠点が存在するから反論も生んでいるという事なのでしょうか。 上記、斎藤先生は最後の説について弓術用の衣服が歴史に現れたのは平安時代中期からなので時代が合わないと言われています。この先生は真名や万葉仮名を読めて古事記を原文のまま読める方なので、それに及ばない私自身は否定できる立場でもないのですが
個人的には
この一番支持の多い説は私のお気に入りだったりします。(延喜式にも兵器庫に備蓄する弓と鞆の数が同じくあるのは古式に倣ってではなく意図があったのでは?格式を何度も変更しているこの時代に兵器庫の備蓄だけ古式を流用する空気があったのだろうか?となれば、平安時代中期までは備蓄する意義があった
→ 腕輪カバーじゃなさそうだ) 他にも「(弦が鞆に当たった)音を鳴らして射勢を助ける」とか鞆の運用には諸説 色々あります。
個人的に 一説 上げるとするなら・・・ 日本の弓は歴史上、胴が入ったり
丸木弓から竹弓に変わったり(今ではグラスファイバー製)と移り変わりこそあれ、その原理(矢を飛ばす理屈)、扱い方(矢の番え方)など道具側の動作原理には古代から現代を通して違いはないように思います。(上記の通り 射法、取り懸けは変わっています) となれば、鞆の使い方も「現代の練習風景の中で理解できるもの」ではないだろうか?そして一番似ているのは初心者が弦で腕を払ってケガに至るのを防ぐために腕にサポーターをつける事だと思います。 その当時 弓を引く人の平均的な熟練度を考えてみると(まだ武士の人数を十分確保できなく)、あまり上手ではない人を徴兵して武器を持たせる時には
やはり ケガ防止のサポーターも一緒に渡すのではないかな?そのための備蓄(当時は弦が腕に当たるのが当たり前だった)と思います。
鞆を取り付ける位置(手首)が 現在のサポーターの位置(腕)と違うなど相違点は
当時の引き方と現代の射法が少し違う(初心者に何も教えずにまず弓を引かせてみると、たいがい顔の横までしか引かない)事からあまり厳密には指摘できないでしょう。これを端的に文章にすると「手首に巻いて衣服の破損を防いだ」と誤解を生みやすい言葉になってしまうのではなかろうか?と
私は思っています。 こうしてみると理論というものは「どうとでも言える」という事が良くわかります。物証(文献など)が出てこないと結論には至らないのでしょう。
道具の起源について確定してる情報 や していない諸説に加え、個人的な感想も書きましたが、いかがなものでしたでしょうか?
一貫流では「故実と武術とは車の両輪の如し」なので古文献を読む事は日々の練習そのものですが、一概に古文献を読むべきだ。と言ってみたところで「著者と自分との弓の技術経験の差が壁で読めない(意味が取れない)」以外にも「崩し字が読めない」など、弓
以外の知識も必要で なかなか そのハードルは下がりません。
このうち「崩し字を読む」知識の習得なしに弓の歴史や知識を深めたい。という方
向けに私が勧める読書の順番としては、まず弓道教本を読破してもらうことを必須として、次に昭和45年発行の現代弓道講座(全7巻)、昭和16年発行の弓道講座(全11巻)の順番で挑戦されてはいかがなものかと思います。順番に読み進んでいくと段々と難易度が上がって行きます。(文章表現に時代的な違和感はあっても文字が読めない事はありません。残る問題は著者と自分との「弓道レベルの差」だけです)
日々の練習を続け 技術の上達に勤しみながら 繰り返し読んで理解しては 読み進んで行かないといけない事は勿論です。私自身 弓の練習中にハッと思い付いてはページを開いて確認、を繰り返しています。
今回使用した実験データ、中国弓や洋弓との比較については主に明治時代の研究成果を使用させて頂きました。 それにしても 日本の弓の歴史の中で明治時代というのは、技術的な進展や起源の探求を深める研究などの特徴を上げにくく、パッとしないように感じていましたが こうしてみると
「日本の弓術を何とか西洋の科学技術(これからの風潮)に合わせようと実験などを繰り返して 科学的データの蓄積が行われた時代」と言えるかもしれない と思います。
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