今年(平成19年)に一貫流 初代・二代
の先生方の墓碑が倒れたまま放置されている事が発見され、復旧・清掃が行われました。
事の始めは、以前より歴代師範の方々の墓地を確認だけはしておこう。と考えていて、秋晴れの浮かれついでに散策に行ったことによります。その時は「昔の墓だし見つかれば恩の字、二百年前の墓碑の字を読む自信は運任せ」ぐらいのハイキング気分でした。
お墓の場所は鳥取市内にある芳心寺。
目当ての先生のお墓はこのお寺の裏山のどこか1日あれば、しらみつぶしにでも。と探索開始。
元々、山の中を散策するのは好きなのですが、お墓を探すのはカンに頼るものがなく、隣のお寺の境内に迷い込んだり、(山の中なので境界がない)
結局、隅々まで探して最後に残った道の一番奥に見つけることができました。
(「奥の方の山の上にある」という、以前探した人のヒントは貰ってたハズなのですが、さっぱり要領を得ませんでした)
しかし、見つけてみて
ビックリ。心配していた文字の方は最近作られたお墓のようにしっかり読め
記録通り「忠夫先生之墓」の六文字。
しかし、想像を超えてコロがってました。
無残! (それならそうと早く言ってくれれば...無理だ)
本来はお墓の管理は縁者の方にお任せして、流派の生徒であったとしても手は出さないものですが、流派概説にも若干触れられているとおり、初代・二代である大野家は二代である不磷先生が若くして死去されており、初代
忠夫先生の墓もお弟子さん達が建てた事が記録に残っています。(上の写真奥:昭和10年に河毛先生が墓地整備を指揮された記念碑もポッキリ)
つまり、お墓の管理者はいない事が明白なわけですが、さて、先生方の墓の前で、大変そうとか、墓石が一人では持ち上がらないから?と諦めるような事は普通でも良識的には頂けないものです。
特に一貫流では、強弓を引く事で、困難な目標や、自分より強い相手を前にしても負けない心を鍛えろ。としています。その流派を作られた先生の墓の前とは、諦める
とか
そういう心の弱さを“一番見せられない場所”です。(困った。
ひょっとして先生、自分で転んだんとちゃうでしょうね?何という難問を。。。)
持ち帰って道場で練習されている皆さんに相談したり、色々と声をかけたところ、協力して頂ける方々が一貫流保存会内外に見つかり、作業当日に到りました。
大の男四人がかりで力と気力をふり絞ってどうにかこうにか元通り墓碑が台座に載りました。
載せ終ってひと安心。(不磷先生墓の石材はひと周り大きく全員がスタミナ切れして後日作業の所も残りましたが、まずはひと区切り)
また、今回の作業中に色々気がついた事があります。
墓碑を元通りに戻して改めて見てみると、自然石の上に座り良いように石を加工して載せてあるとか、昔の職人の技の細やかさが表れた、いい仕事をしています。
三町尺的中率十七八嘗百発九十九中 (約300m先の小的に1078射、射率100発99中)の字も顕在.
(全文は流派概説に掲載)
河毛先生がお立てになった記念碑も修理中。
無事、作業完了の記念写真
07/11/08. (平田撮影) 前に葉っぱが。。。気がつかなかった。ごめんなさい。松本さん。
一貫流内外の有志の皆さん お疲れ様です。誠にありがとうございました。
ちなみに八代
河毛先生のお墓はご子孫の方のお世話が行き届いているようで、何事もなく鎮座されていました。
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